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「真夜中の弥次さん喜多さん」 悔しい・・・ [DVD/ビデオ/映画レビュー]

不快感。
見ている間も、見終わった後も不快感で一杯だった。
しかし、今は全く逆の印象を持っている。

今日はクドカン映画の最新作

「真夜中の弥次さん喜多さん」

のレビュです。

この映画は、漫画界の異端児(?)しりあがり寿原作の漫画を映画化したものである。
僕は原作を読んだことはない状態で映画館へ向かった。

映画冒頭から、ありえない映像の連続だった。
いきなり弥次さん喜多さんのキスシーン。。。
時代背景を完全に無視しバイクを乗り回す弥次さん喜多さん。。。

まるで”映画の世界に入ることを拒絶している”かのような印象を受けた。
ところが、見ていると
”一瞬で映画に集中している自分がいたりする。”
これは何なのだろうか?
そういった意味での不快感が延々と続き映画は終了してしまう。

ストーリはいたって簡単。
ホモカップルの弥次さん喜多さん。
喜多さんの薬物中毒を治すために弥次さんは伊勢への旅を企画する。
その珍道中を宿ごとに5つの物語で構成している。

さて、不快感について話を戻したい。
不快感で一杯だったのは、映画を見終わってしばらくだけだ。
じっくり映画を振り返ると今は、もう一度見ても良いような気がしている。

何故ならばこの映画は

”パロディ映画”

だったのだ!!!
この視点なしに見てしまったことを今では反省している。

まず、映画の題名。
これは原作漫画と同名であるが”真夜中のガンマン”をもじったものであろう。
男の二人旅という意味で間違いないと考える(アメリカ映画です)。
そして、主人公二人の名前も何かの古典で使用されている。
つまり、原作からしてパロディという前提があったのだ。

そんなバックグラウンドがあるのだから
クドカンはやりたい放題、自分のしたいパロディを映像化している。

幾つか例を挙げる(以下、若干ネタバレです)
(もしこれらが原作の描写そのままならごめんなさいなんですが。。。)

 「弥次さんが喜多さんの股間に手を入れ、金○袋を伸ばすという描写は
 松本人志がビジュアルバムで見せたコントのパロディだ」

 「荒川良々の屁で、みんなが老けるのは、もののけ姫のパロディ」

 「笑いの宿自体の存在がお笑いブームに対するパロディ」

 「”実物だと思っていた風景が実は絵だった”
 ”山びこが返って来ない”等は
 ドリフ時代から脈々と続く手法のパロディ」

等々あり、そのような視点で見ればもっと沢山パロディ元が分かったかもしれない。
いま僕は、映画を見ている間にパロディ映画であるという視点を
持てなかったことを悔やんでいる!!!!

しかも、巧みにそのヒントが散りばめられていた。
この映画の主題が”リアルってなんだ?”
その言葉に踊らされ、青春ムービーなのか?と疑問を持ちつつ映画を見たが
今思い返せば、それがクドカンなりの道しるべだったのかもしれない。
”パロディに早く気付いてくれ!!!”と言わんばかりの・・・悔しい・・・

そう、パロディ映画なのだから連続性を求めてはいけなかった。
一瞬一瞬で集中して見て、あとはダラっと見るのが正解。
映画に入り込むのを拒絶しているのではなく
ダラっと見てねという演出にも僕は気付いていなかったのだ。。。

最後に。
パロディ映画であることを分かりにくくしているのは以下ではないだろうか?

  ・クドカンというネームバリュ
  ・パロディ元が少しマニアック
  ・荒川良々が目立ちすぎ/面白すぎる
  ・リアルとは?という問いにしっかり答えすぎ

特にこの映画はリアルって何だろう?という問いをしっかり見つめ
色々な見せ方を模索しつつ彼等なりの答えをしっかり見せてくれる。
しかしそれが逆に、分かりにくくしているのではないだろうか?

クドカンはひたすら贅沢だ。

砂消しゴムで消せない度数
★★★☆☆


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